語ることがない
昨日以上になにもない1日だった。
在宅勤務だったのもある。昨日の午前のダラダラを全日やってた感じ。
ここがこのまま日記として続いて行った場合、週の半分くらいこういう書き出しで始まるのだろうか。
と思ってたら、聞いてたラジオで引用されていた太宰治の文章が心を叩いたのでここに引用する(つまり引用の引用)
文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
太宰治 『もの思う葦』より
完全にこの日記である。切り捨てたほうがいいものが山になってるだけである。せめてちゃんとかき集めればパン耳として売れるかなと思ったものの、その実態は粗挽きのパン粉だ。
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たぶん今日は、世間的に言えば到底「なにもない1日」ではないが、その話題はここではあえて言及しない。
自分の行動原理の中に、その理由となるものが3つほど思い当たる。
1つ目としては、2日前くらいに書いたTwitterの話と同じように、ここに多くの人と同じことが書かれるだけ――悪く言うとテンプレ――になってしまうのを嫌うという理由。
2つ目は言霊信仰みたいなもので、言葉にするとそれが現実のものに感じられて、ちゃんと受け入れる必要が出てくるから。
逆に言えば今はある種の現実逃避をしていて、それによって精神を半ば無理やり安定させていると言える。
言霊の話もそのうちここで長々と話すのだろう。
口にすれば 叶ってしまうから
3つ目がたぶん行動原理としては一番大きいウエイトで、
語りえぬものについては、沈黙しなければならない
ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』より
である。
この言葉は文字面だけがよく先走って多用されがちだが、「真相を知りえないから」というよりは 「この話題を突き詰めて人々が正義や善悪の話をし始めたときに、それは『命題が間違っている』という意味で解決不可能となる」のようなニュアンス。
なんて偉そうに言うものの、はたして自分はこの言葉を本当に理解しているのかって話だが。
というのも、本棚にある論理哲学論考の解説書みたいなものを「これが自分の行動原理だから読んでみて」と人に貸しておきながら、自身としては半分も読んでいないという有様なので。
そういうわけで、語りえぬものについて沈黙できないがためにこの場所がある。
語りえぬ部分を引用で誤魔化しまくった結果あんまり自分の言葉じゃないものみたいにもなってしまったが。
プログラミングみたい。
2022-07-08