たとえがうまく行った
土日が平日よりも忙しいという珍しい人種のため、日記を更新できなかった。
綺麗すぎるほどの3日坊主で終わりかけるところだったが、また平日がやってきて書く時間を確保できたのでいちおうその2日分を書いてみる。
忙しい以外の出来事として、たとえがうまく行ったのが土曜日のハイライト。
状況をあえてぼやかしつつ書くと、同業者がある部品を壊してしまい新しいものを買ったのだが、どうやら寸法が合わないものだったらしく嘆いていた。
余談だがその部品は1万円くらいする。
それに対して「そんなシンデレラみたいなことあるんですね」って言ったら周りの人たちに割とウケた。
マックの女子高生や電車内の外国人や聡明な視点を持った我が子たちによる拍手喝采の大団円って感じ。
別の人に「たとえがオシャレ」って言われたのが一番嬉しかったけど、これほど褒め言葉として素晴らしいものはないと思うので、みなさんも人を褒めるときに使ってみてください。
実際これサイズ合わなかったから立場的にはシンデレラじゃなくそのお姉さまたちの方が合ってるけども。
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ものを書こうと思うと日に寄らない自分の思想とか抽象的な概念を書きたくなってしまうけど、日記ならこういうエピソード的なものを中心にしたほうが良いのだろう。
続けて日曜日の話をしようと思ったけど、ちょっと通念の話になりそうなのと今日月曜日の方が書けなくなりそうなので省略。
エピソードじゃなければそのうちきっとまた書く機会は来るはずなので。
2022-07-09, 10
語ることがない
昨日以上になにもない1日だった。
在宅勤務だったのもある。昨日の午前のダラダラを全日やってた感じ。
ここがこのまま日記として続いて行った場合、週の半分くらいこういう書き出しで始まるのだろうか。
と思ってたら、聞いてたラジオで引用されていた太宰治の文章が心を叩いたのでここに引用する(つまり引用の引用)
文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
太宰治 『もの思う葦』より
完全にこの日記である。切り捨てたほうがいいものが山になってるだけである。せめてちゃんとかき集めればパン耳として売れるかなと思ったものの、その実態は粗挽きのパン粉だ。
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たぶん今日は、世間的に言えば到底「なにもない1日」ではないが、その話題はここではあえて言及しない。
自分の行動原理の中に、その理由となるものが3つほど思い当たる。
1つ目としては、2日前くらいに書いたTwitterの話と同じように、ここに多くの人と同じことが書かれるだけ――悪く言うとテンプレ――になってしまうのを嫌うという理由。
2つ目は言霊信仰みたいなもので、言葉にするとそれが現実のものに感じられて、ちゃんと受け入れる必要が出てくるから。
逆に言えば今はある種の現実逃避をしていて、それによって精神を半ば無理やり安定させていると言える。
言霊の話もそのうちここで長々と話すのだろう。
口にすれば 叶ってしまうから
3つ目がたぶん行動原理としては一番大きいウエイトで、
語りえぬものについては、沈黙しなければならない
ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』より
である。
この言葉は文字面だけがよく先走って多用されがちだが、「真相を知りえないから」というよりは 「この話題を突き詰めて人々が正義や善悪の話をし始めたときに、それは『命題が間違っている』という意味で解決不可能となる」のようなニュアンス。
なんて偉そうに言うものの、はたして自分はこの言葉を本当に理解しているのかって話だが。
というのも、本棚にある論理哲学論考の解説書みたいなものを「これが自分の行動原理だから読んでみて」と人に貸しておきながら、自身としては半分も読んでいないという有様なので。
そういうわけで、語りえぬものについて沈黙できないがためにこの場所がある。
語りえぬ部分を引用で誤魔化しまくった結果あんまり自分の言葉じゃないものみたいにもなってしまったが。
プログラミングみたい。
2022-07-08
記憶がないことだけは覚えてる
退勤中に書いている。
今日は昼から出勤して20時くらいに帰ったけど、今この帰りの電車で、ここに書くことでも考えるかと1日を思い返したところなのだが、何も思い出せない。
……さすがに「何も」は過言なのでちゃんと振り返って説明してみようとする。
朝起きてから午前中は自宅でうだうだと、仕事してるとしてないの中間――どちらかと言うとしてない寄りの状態で過ごしてたら気づいたら昼。
ちゃんと上司に相談したほうがいいなみたいなことがあったので会社に向かう。
出社して席につくも、上司ずっと忙しそうだなとか、在宅ばっかでレアキャラの自分が出勤してきたことで逆に後輩がここぞとばかりに代わる代わる相談に来るなどがあり……
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で、今。
ちゃんと思い出せてるじゃんって話だが、朝からの記憶を総計しても30分ほどにしかならない。他者の関与しない、自分のタスクの進捗もなにもない気がする。なんなら出勤中の電車乗ってた記憶もほとんどない。
今日みたいな素面の状態で謎に記憶飛ぶことは多かれ少なかれ稀によくあるからいいとして*1(ちなみに酔ったときは逆に一度もない)、これを踏まえた自分の脳内はラッキーと不安が半々くらいでせめぎ合っている。
仕事という苦痛な時間が一瞬で過ぎ去ったことに対するラッキーと、もうちょっと嬉しい出来事に対して同じようなことになったら嫌だなの不安。
少なくとも平日はこうであってほしいし、休日に起こらないでほしい。
まあきっと、覚えなくていい記憶はちゃんと脳に残さないように、自分はうまいことやっているのだろう。
ここまで書きながら頭の中に浮かんできた大量の関係ない話題も、(無理やりその話題に持っていきたくなるのを耐えながら)消しまくっていて、もう思い出せない。
しばらく経って一度浮かんだことが再び現れて、デジャヴを感じて、を繰り返すだけの日々。
こことかTwitterとか、外部記憶をたくさん作っておくことで、残したい記憶だけ残せるのは便利だなとは思う。
今日の話は別に残したいやつではないけども。
2022-07-07
*1:数日前、踏切を渡らないと行けない場所へ向かいながら(この先に踏切あったな……)と思って、その後踏切渡った記憶が全くないまま気づいたら目的地にいたことがある
捻くれているので「安易なバズ」を嫌う
具体的に何のという言及は避けるが、ツイートが久しぶりにちょっと伸びた。
とは言っても「万バズ」とか「バズったので宣伝です!」とは無縁な、現時点で30いいねほどだが、ここ数日低迷気味だったのと、伸びに対しての我儘なモヤモヤがあったので今日はそれらの話を書くことにした。
先に前者の話題を広げる。
ここ数年で理解したことに、自分のTwitterには明らかな日ごとの「調子」があって、調子がいいときは連続してどのツイートにも数十いいねがつくし、悪いときは常連さんの1, 2いいねくらいになる、みたいな傾向がある。
この傾向には現実世界でのメンタルや楽しい出来事の量も影響してると考えられるけど、その話は別でするとして――
これってなんかもう株みたいなもので、バブルが崩壊するとずっと悪い状態が続く。一昨日くらいからも「お、平成不況かな?」くらいの景気の悪さを感じていたところだった。
そんな中で今日も第3のビールをチビチビ飲む感覚の呟きを繰り返してたら、急な通知の増え方を感じた。今、こんなツイートで吹き返すと思ってなかったから驚いた。
「こんなツイート」って言ったのは、自分の中では散々使い古された文体だったから。要はもっといいねされたい呟きはあるのに、こっちの方がつくのね、と。
もちろん日頃からツイートにいいねしてくれる人たちには感謝の心で満ちてるし、(この人にいいねされると認められた感あって殊更嬉しいな……)って人もいるし、誰しもが自分みたいにTwitterを10年近く続けてる訳ではないし、使い古されたカノン進行にいつまでも感動させられるわけだし、名作と呼ばれるものはいつまで経っても名作だし――
それはそれとして、自分としてはTwitterのテンプレ(ちょっと前に炎上したバズツイートあるあるみたいな)(ほんとに気づかなかったのか狙ってなのか分からないくらいの誤字ツイートみたいな)は見飽きた身で、他にもそういう人がいる前提で新鮮さのある文章を綴りたいって気持ちがずっとある。
万人にウケるんじゃなく伝わる人だけに伝わりたいし、自分のアカウントはそういうコンテンツでありたい。
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などという身勝手な戯言を供述しており、反省の色の見られない以上の思いが大雑把なTwitterに対する意識。はたして高いのか低いのか。
再度になりますがこんなアカウントをミュートブロックせず日々いいねRTしてくださる暖かいフォロワーの皆様には大変感謝しております。
2022-07-06
別のアカウントで2019-2-20に書いてた話のコピペ
当時のタイトル:
一期一会が嫌い
なんかエモいタイトルになってしまったが、エモい内容にする予定ではない。残念でした。言葉として、嫌いって話。
「嫌い」という感情はくどーが生きる上でそんなに必要になることがないので、こうやって珍しく湧くとその要因を考え込んでしまいがちである。
しばらく考え込んだ結果、「一期一会という言葉には言葉としての仕事が果たされていない」という結論に至った。
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言葉というのは、実世界に存在するものごとに対する輪郭を形成するものだと思っている。
テーブルの上に何がおいてあるのかを他人に話すときに、「りんご」という言葉を用いることによって聞き手にはりんごの大きさ、形、色というイメージが形成される。それまでは何が存在するかわからない無限の可能性が秘められたモヤのような状態であったのが、りんごという狭いくくりに限定されるのである。
もちろん「りんご」と聞いただけでは具体的な大きさなどの情報が1つに確定するわけではないが、それによってテーブルの上にあるものは「みかん」でも「ビビンバ」でもない、「りんご」という枠の中に収まるものだという確約がなされるのである。
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具体例をダラダラ話しすぎてしまったが、言葉ってそういう感じで、「これは〇〇であって△△ではない」という線引きをする役割を果たしてるものだと思ってる。
その上で、「一期一会」という言葉。
〔茶の湯で〕 いついかなる時も、 客を、 一生に一度しか出会いの無いものとして、 悔いの無いようにもてなせ、 という教え。
(新明解国語辞典より)
茶の湯由来なのか。Wikiみたら千利休が発祥みたいなことも書いてた。へー。最近は「一生に一度しか無い機会」そのものを指す使い方もあるらしい。
これを先ほどの線引きの概念に当てはめると、
「『一度出会った友達をまた会えるからいいやで適当にあしらおう』ではない」
「『また今後訪れうる機会』ではない」
という言葉と言える。
なんというか個人的に、輪郭がすごくでかい。前者だとして、「仲良く。」で収まる話なのではって思うし、後者によって輪郭がつけられた中身も範囲が広すぎて全然限定されてないなと。「いのちだいじに」だったら、「死のリスクを負いながら攻撃に徹する」という選択肢が存在する上で、そうではないの線引きを施す役割を果たしている。言葉としてのそういう役割が弱い。「りんご」に対して「くだもの」は同様に役割が弱いわけだけど、その比じゃない。「生きる」くらい弱い。
一期一会は役割が弱い。仕事ができてない。俺か。親近感湧く。
嫌いだ。