隣の客が何を頻繁に食べてるかジロジロ見るのは失礼だと思う

日記にしようとしてるけど続く気がしない

別のアカウントで2019-2-20に書いてた話のコピペ

当時のタイトル:

一期一会が嫌い

 

なんかエモいタイトルになってしまったが、エモい内容にする予定ではない。残念でした。言葉として、嫌いって話。

「嫌い」という感情はくどーが生きる上でそんなに必要になることがないので、こうやって珍しく湧くとその要因を考え込んでしまいがちである。

 

しばらく考え込んだ結果、「一期一会という言葉には言葉としての仕事が果たされていない」という結論に至った。

 

*****************

言葉というのは、実世界に存在するものごとに対する輪郭を形成するものだと思っている。

テーブルの上に何がおいてあるのかを他人に話すときに、「りんご」という言葉を用いることによって聞き手にはりんごの大きさ、形、色というイメージが形成される。それまでは何が存在するかわからない無限の可能性が秘められたモヤのような状態であったのが、りんごという狭いくくりに限定されるのである。

もちろん「りんご」と聞いただけでは具体的な大きさなどの情報が1つに確定するわけではないが、それによってテーブルの上にあるものは「みかん」でも「ビビンバ」でもない、「りんご」という枠の中に収まるものだという確約がなされるのである。

*****************

 

具体例をダラダラ話しすぎてしまったが、言葉ってそういう感じで、「これは〇〇であって△△ではない」という線引きをする役割を果たしてるものだと思ってる。

その上で、「一期一会」という言葉。

 

茶の湯で〕 いついかなる時も、 客を、 一生に一度しか出会いの無いものとして、 悔いの無いようにもてなせ、 という教え。
新明解国語辞典より)

 

茶の湯由来なのか。Wikiみたら千利休が発祥みたいなことも書いてた。へー。最近は「一生に一度しか無い機会」そのものを指す使い方もあるらしい。

これを先ほどの線引きの概念に当てはめると、

 

「『一度出会った友達をまた会えるからいいやで適当にあしらおう』ではない」

「『また今後訪れうる機会』ではない」

 

という言葉と言える。

なんというか個人的に、輪郭がすごくでかい。前者だとして、「仲良く。」で収まる話なのではって思うし、後者によって輪郭がつけられた中身も範囲が広すぎて全然限定されてないなと。「いのちだいじに」だったら、「死のリスクを負いながら攻撃に徹する」という選択肢が存在する上で、そうではないの線引きを施す役割を果たしている。言葉としてのそういう役割が弱い。「りんご」に対して「くだもの」は同様に役割が弱いわけだけど、その比じゃない。「生きる」くらい弱い。

 

一期一会は役割が弱い。仕事ができてない。俺か。親近感湧く。

 

 

嫌いだ。